「……ごめんね、お母さん」
 ベッドで眠る彼女にそう言い残し、私は愛しい村に永遠の別れを告げた。


悪夢編
【思い出せない幸せ】


「は!? サンが死んだ?」
 店長の声が、厨房に広がる。背中に寒気が走った。
「……首を切られて……酷いな、人の恨みを買うような奴じゃなかったのに……」
 店長の電話の応対で、私はこの街との別れを悟る。店長と会話しているのは、きっとサンの奥さんだ。
「……あぁ、そうか。そりゃあ残念だ。アイツのオリーブはもう……わかってる。葬式には皆で行くよ」
 いつの間にか、私は皿洗いの手を止めていた。とめどなく流れていく水は、冷たい。
 サンは店のお得意様だった。本当はちゃんと弔ってあげたかった。けど、彼は私が殺したようなものだ。殺人犯はお葬式には行けない。
「おう、日取りが決まったら知らせてくれ。じゃあな、メリッサ」
 そうして、店長は電話を切った。けど、店長は私達に何も言わなかった。私達も、電話のことを聞かなかった。
 魚が焼ける音も、せわしなく響く声も、無情なほどいつも通りだ。
「ほら、! 手が止まってんよ!」
「……あ、はい!」
 店長の奥さんが、私をはやしたてる。いつもと同じことだけど、奥さんの顔は僅かに暗かった。
 今日で幸せだった日々がひとつ終わってしまう。思わず視界がうるんだ。
 ごめんなさい。私がここに来てしまったから。
 ごめんなさい。今日だけは、ここにいさせて下さい。
 お皿を一枚一枚、丁寧に洗う。汗を拭うふりをして、滲み出る涙を拭った。


 今宵は満月。
 ひとつ屋根を取り払えば、白き死神と呼ばれるようになった私がそこで月を眺めていることを、ここの家族は知らないだろう。
 白き死神の存在は、今いる街でも存分に知れわたっていた。だから、自由に動き回ることはできなかったけれど、あまり警戒していない風で、少しの変装で買い物くらいはできた。
 けれど、いつからだろう。満足に眠ることもできなくなっていたし、人と眼をあわせることができなくなった。
 行く先々で、白き死神と後ろ指を指され、超能力者狩り以外の人間にも命を狙われるようになった。
 都市伝説のような、小娘が大鎌を振り回して町を回るという話。信じる人間が酷く多いことを、私は否定したかった。けれど、大の大人が私を見て怯えていたのは、どうしようもない真実だった。
 ……いや、これの場合、都市伝説のようなあやふやなものじゃない。
 私が行くところでは決まって人が首をはねられる。その隠しようのない事実が、私の前で繰り返されたから。
 浅はかな人間達は、たくさんの矛盾を忘れて、私に死の責任を押し付けてくる。不透明なものを嫌う、人間の性が、事実を歪めた。
 子供の私が、その歪みを正せるはずもない。できることと言えば、その非難の場から逃げることくらい。
 苦しいのと同時に、可笑しい。なんて人間は莫迦なのだろう。そして、笑う私自身もまた、人間で、莫迦だ。
 だって、事実は違うけれど、私が死ねば、確かに犠牲になる人はいなくなるかもしれないから。
 理屈は分かる。死にたいと思う。けれど、自殺は怖い。誰かが……それこそ、超能力者狩りでもいいから、私を殺してくれたらいいのにと思う。
 そしたら、同情する人の一人はいてくれるかもしれないから。
 甘えている。それはわかっている。私がぐずぐずしているから、代わりにたくさんの人が死ぬということも、わかっている。
 でも、わかっていると言って行動しないのは、わかっていないのと同じ。わかっているのなら、責任を果たきゃ。
 だからって、自殺はできない。酷い堂々巡りだった。
 幸せになれないと知ってから、馬鹿みたいにこんなことを延々と考え続けるようになった。考え、現実を見ることで、救われた気になっていた。
 どうすればいいのかという問いに対する答えは見えているのに、そうすることができない自分が、たまらなく大嫌いだ。
 でも結局、何を考えても私は自分が一番大事。
 私は、全てから逃げて、生きようとしている。
 いつの間にか、左腕に爪を立てていた。赤い線が、腕に4つ並んでいる。
「ハァ〜イ、ちゃん」
 勘高い声が、静かな空気を揺らす。
 隣の家の屋根に、その発声源がいた。
 何度か見たことがある姿だ。長身で細い体。特に、タイトスカートから覗く足はすらりとしている。ブーツの爪先が光っていると思ったら、刃が出ているのがわかった。ウェーブがかかった金色の長髪が、発光するように月明かりを反射していた。
 そして、月明かりを反射するものがもうひとつ。彼女が握っている、銀色の大鎌だ。
「アタシの名前、覚えてるかなぁ、かれこれ3日振りだもんねぇ?」
 女は口だけで笑う。血の臭いを隠す香水が、夜を汚していた。
 反応を示さない私に、女は嘲笑を向ける。
「やっぱりちゃん、忘れちゃってるかぁ、しょうがないよね。頭がイカれちゃってるからねぇ」
 女の眼が細くなる。私は、横目で見るだけで無視した。そんな言葉は言われ慣れてるから、今更辛くともなんともない。女はそれが気に入らないのか、口を尖らせる。
ちゃん、返事してよー……あ、アタシのことわかんなくって人見知りしてる? じゃあもう一回、アタシの名前教えてあげる。だって、いい加減寿命だもんね」
 チラリと見せた殺気に、私は跳ねるように立ち上がる。その間に、女は鎌を構えて屋根の隙間を飛び越えた。
「うふふ。よかったわねぇ、死刑執行人が、慈悲深いリーファちゃんでぇっ!!」
 振りかぶられた鎌は、月の光を赤い色に染めてから反射した。
「っ!!」
 鎌を睨み、動きを止める。リーファは、一瞬狼狽するけれど、すぐに落ち着きを取り戻す。私の力が働いていると、気付いたのだろう。
「おっしーなぁ、決まったと思ったのに」
「……あなた、ここで大鎌振り回すつもり?」
「あぁ、やっと喋ってくれた! 全然返事してくれないから、舌抜かれたのかと思ったわ!」
 くすくす、とリーファは左手を口に当てて笑った。真っ赤な唇が、血をすすった後の吸血鬼を思わせる。
「むしろ、そうだったらよかったのに」
 つくづく、よく笑う女だと思う。
「じゃあ、今から私の舌を抜くのかしら」
「やーね、アタシがやるなら、舌抜いてポックリ逝かせるより、じっくりといたぶって死と生をうろうろさせるほうが好きなの」
 口が弓なりに曲がり、歪んだ笑みを浮かべる。
「だって生まれながらに罪を抱えているアナタ達に、罰を与えなきゃいけないから」
 笑っているはずなのに、目は月のように見開いている。形こそ丸いけれど、白眼は血走り、月の美しさの欠片もなかった。
「その罰を、アナタは拒み続ける。だから別の罰を与える為に、罪のない人が死ぬのよ」
 私の脳裏に、たくさんの人の顔が映っては消えていく。
 その隙に、リーファが鎌を振り上げる。リーファは反動でよろめくが、むしろその勢いを利用して、なぐように私の右肩へ鎌を向けた。
 気が付いた時には、私の白い服の肩口が真っ赤に染まっていた。
「ああぁぁぁあぁああぁぁっ!!」
 視界が飛ぶ。肩から下の感覚はない。ただ、火を吹くように熱いだけ。
「さぁ、もっと啼いて? まだまだ、アナタは死ねないわ」
 跪く私の肩に、リーファの足がのる。その拍子に、私は仰向けに倒れ、頭を打つ。肩にリーファの体重が掛けられ、私の声は人のものではなくなった。
「うっわぁ、汚い声! どうせならもっと可愛らしく啼いてよ、いつも歌ってる時みたいに、ね」
 何も聞こえない。何も見えない。感じるものは、熱い肩と、痛みだけ。
 その時、カチリ、と何かが外れる音がした。音と言うには、違うかもしれない。それは私の脳に響いただけで、空気を震わせるものではなかったから。
 突然、肩にかかるリーファの足は消え去り、景色が少し明るくなる。この明るさは、夜じゃない。
 背中が、濡れた。全身に、冷たいものが降り注がれる。それが雨だと気付くのに、しばらく時間がかかった。
 痛みに縛られていた意識が、醒めていく。
 きっと、私はイタリアではないところにいるのだろう。日がある時間ということは、アジアなのか。私が身を預けているのは、コンクリート。としたら、アジアの中でも幾分か進んでいる国にいるのか。見えている世界は、あまりにも狭い。数十センチ先は壁。路地裏か何かだろうか。人気はなかったから、寂れた街なのかもしれない、と状況を整理した。けれど、すぐに冷静さを捨てなければならなくなった。
 肩の傷に染み入る雨水が、私の命を中から削っていく。肩を無事な手で押さえて、唇をきつく噛んで、声が漏れるのを堪える。誰にも見つからないために。
 もう嫌だ、早く死にたい。今までバカみたいに逃げて、何の意味もなかった。
 遅かれ早かれ、こうして野垂れ死ぬ運命だと分かっていたのに。
 体が疼く。冷えていくはずの体が、熱を帯びる。また、本能が勝手にテレポートをしようとしているのがわかった。今更、何を足掻いても私は自力で生きることはできないというのに。
 景色はぐらりと歪み、瞬きをしている内にまた雨の中へ放り出された。状況は、ほとんど変わらない。僅かな太陽の光と、背中に受ける冷たいコンクリート。
 移動した先がこれでは、私の本能も空回りだ。
 妙に冷めているのは、未練というものがないからなのかもしれない。
 さっさと終わって欲しくて、私は目を閉ざした。相変わらず肩は痛いけれど、それが当たり前のような気さえ起きた。
 雨の音だけが外からの情報。時間の感覚は皆無に等しかった。長い間だったかもしれないし、短い間だったかもしれない。ただ、意識は少しずつ遠のいて行くことを密かに喜び、自由を求めて何も抵抗せずにいる。
 何もかも終わるんだ。
 どことも知れない場所で、私は命を落とす。本当なら不安になるところだ。でも、今の私にとって、そんなことはどうでもよかった。例え亡骸が誰にも見つからずに朽ちても、烏に食われても。この魂が解放されて無になれるのなら、それでよかった。
 痛みは、私を死へ誘う船。
 雨は、船を安らかに運ぶ海。
 そう思えば、苦しい痛みも、染み入る雨も、心地よかった。
 ふわりと体が浮くような感覚に抱かれて、私は世界と永遠の別れを告げた。
 さようなら。
 私の、大切な人。
 私は、この世界が大嫌いでした。