――ピピピッ、ピピピッ
 タイマーが時間を知らせる。
 鍋を覗くと、白くなった湯の中で、パスタが揺らめいていた。
 それを隣のコンロにあるフライパンに移し、ミートソースと絡める。
 そして主を起こそうと思った時、電話の音が鳴っているのに気が付いた。
 急いでダイニングに移動し、ディスプレイを確認すると、"本部"の文字が浮かんでいる。受話器を上げた。
「もしもし」
『――もしもし?』
 低い、男性の声だった。危うくデータから見分け損ないそうになるほど変わっていたが、それは確かに私の記録にある声だった。
「……雲雀様ですね」
『あぁ……じゃあ、君はだね、久しぶり』
 主が敵対視していた人の一人。主がここを出ていっている間に、彼はデーチモに連れられて、何度かここに来たことがある。
 主はそのことを知っていたようで、帰ってきてから間もなく「奴らに何もされてないよな?」と尋ねられた。"何か"なんて抽象的な質問に、私は答えることができなかったが。
「はい、ご無沙汰しております。主に御用ですか?」
『いや、用があるのは君なんだ』
「……私に」
『獄寺隼人とは、うまく行ってるのかって聞こうと思ってね』
 意味を、正しく受け取りかねた。
「主と……?」
『獄寺隼人が、あんまり日本にいたいと沢田にねだるから……結構な関係なのかな、と思ってね』
「結構、とはどういうことでしょうか」
『……獄寺隼人が君のこと好きなの、知らないわけ?』
「……………………」
 スキ、とはなんだろう。初めて聞いた言葉だった。
、聞こえてるの?』
「……はい、聞こえてます」
 それ以上言葉を返せずにいると、雲雀様はすぐに私がどもった理由を悟って下さった。相変わらず、勘が鋭い方だ。
『あぁ、この言葉は初めて聞いたのか。何なら獄寺隼人に聞いてごらん。きっと教えてくれないだろうけどね』
「雲雀様は、教えて下さらないのですか?」
『別に教えてもいいけど、それじゃつまらないよ。そうやって彼を激昂させれば、彼を咬み殺すことができるだろう?』
 要するに、ただのわがままのよう。この人は、自分の為ならなんでもやってしまうのだ。数回の面識のうちに、唯一学んだことだった。
「お変わりないですね、雲雀様は」
『君は随分と変わったみたいだね』
「……そうですね」
 自己分析で、自身の変化に気付いていた。人間は、より強くその変化を感じるのだろう。
『初めて会った頃より、声がずっと人間らしくなった』
 けれど、まだわからないことはたくさんある。人間の言う"らしい"は、あまりにも曖昧で、今の場合、私の全く変っていない声質がどう"人間らしく"なったというのだろう。
「そうですか」
 問ったことによって、答えがないこともわかっているから、聞くことはしない。
『でも、君はもっと人間に近付ける。そうなった君と、面と向かって話せるのを楽しみにしてるよ』
 私も、と言おうとしたところで、受話器から聞こえたのは規則的な電子音だった。
 受話器を戻して、キッチンを覗いたら、パスタはすっかり柔らかくくたびれていた。
「……茹で直さなくては」
 溜め息を吐く。ほんの少し前では、有り得なかったことだ。
 新しくパスタを鍋に入れて、タイマーをセットした後に、主が眠っている寝室に向かった。
「主、おはようございます」
 ノックをしながら「失礼します」と言い、寝室に入る。
 厚いカーテンで日光は遮断され、電光も消されている真っ暗な部屋。私は、カーテンを開け、丁度主のベッドに光が届くようにした。
「おはようございます、7時を過ぎてます」
 主は身動ぎをして、頭を掻きながら体を起こす。綺麗な銀髪が、太陽の光を反射した。
「……はよ」
 眩しそうに薄く目を開けながら、私に笑いかけた。
「はい」
 私も、それに応えるつもりで笑った。すると、主は少し視線を逸らされてしまった。
「……飯はできてるのか?」
「申し訳ありません。雲雀様から電話を受けていたので、まだ用意しているところです」
「雲雀? オレにか」
「いえ……私に、と言ってらしたのですが、何が言いたかったのかわからないまま切られてしまいました」
「…………ま、雲雀はやること成すこと突拍子もないからな。あんま気にすんな」
「はい」
 という訳にもいかない。どうしても気になることがある。
「すみません、パスタ見てきます」
 なのに、何故だろう。
 聞いてはいけないことのような気がする。
 ……何故。
 丁度、キッチンでタイマーが鳴った。キッチンに戻り、手早くソースと絡めて、深皿に盛り付ける。コーヒーを淹れる時間はない。主が食べた後に出そう。
 主がダイニングに出て、席についた。
「あんがとな」
 いただきます、と手を合わせ、私がテーブルに置いた深皿にフォークを入れた。
 食べている間に、一度キッチンに戻りコーヒーを淹れる。ダイニングに戻ると、主は既に深皿の中を空にしていた。

「主。お尋ねしたいことがあるのです」
「なんだ?」
「スキ、とはどんな言葉なのですか?」
「…………」
 主はコーヒーカップを静かに置き、何かを隠すように無表情を装っていた。
「お前、ココに辞書入ってんだろ……?」
 そう言って、主は私の額を人差し指でつつく。
「あ、そうでした」
「ちょっと待て、やっぱり使うな」
「……ですが」
 私は知りたい。
「オレが教えてやるから」
「お願いします」
 間髪いれずに答えたのが悪かったのか、主は少し躊躇った後、私の後頭部に自らの手を当てて、主自身の顔へ寄せた。
 唇が唇と重なる。視界には、主の白い肌と銀髪しか映らない。焦点が合わず、ぼんやりと肌と髪が溶けているようだ。
 触れていたのは、ほんの一瞬だった。離れていく主の顔は、朱に染まっていて、目は伏せて、私と視線を交わすことを避けていた。
「こーゆーこと誰かにしたくなる気持ちのことをその誰かが好きだって言うんだよ」
「………………はい、わかりました」
 唇が、僅かに湿っている。私の唇は、人間と同じようにできているのだろうか。
「ついでに」
「はい」
「キスするときは、目を閉じるって相場が決まってんだ。わかったか?」
「……はい」
 そう言って、主はまたキスをする。私は目を瞑って、それに応えた。
 そのキスの後だ。
「ところで、その言葉、誰から聞いた?」
「雲雀様からです」
「……そうか」
 主は、もう何も聞かず、部屋に戻ってしまった。その背中を見送って、私は深皿とコーヒーカップを洗いながら考える。
 雲雀様の話を信じるなら、主は、決して許されない想いを抱いている。きっと本当のことだろう。
 私は、アンドロイド。それを忘れてはいけないのに、主は忘れてしまっている。
 そして、私はその主の想いを拒絶することはできない。
 近頃、私は思い初めている。
 何故、私は人間じゃないのだろう、と……。かつて、主が疑問に思っていたのと同じように、私もまた、そう思っている。
 主はまだ私が人間だったらと願っているのだろうか。もしそうなら、私はそれが悲しい願いだとしりながら、主の想いを全て受け入れるのだろう。
 私はもう、ただの機械ではない。
 主が傍にいてくれることが、私には大きなものになっていることに、気付いているから。



 主は、しばらくイタリアにいるらしい。特にすることもなく主が読んでいた本のページを繰っていると、電話が鳴った。ディスプレイには、『非通知』の文字があった。
「……もしもし」
『もしもし、僕だけど』