症例01:恋煩い患者

 水溜まりを思い切り引っ掛けてしまった。パンツは膝まで濡れて、靴の中は水が染み込んで重たい。
 派手な音に私の方を見る通行人は、嘲笑を浮かべていたり冷ややかな眼を向けていたり、色々。
「ねーちゃん大丈夫?」
「えぇ問題ありません。今家に帰るところなので失礼しますね」
 眼を細めて、というよりはしっかり瞑って、いやらしく肩に手を乗せた男の人に笑いかけて、そして全力疾走。男の人から逃げる方法はこれに尽きる。
 元々走っていたところで事故ってしまったのだから、自然といえば自然だし。
 動く足とは裏腹、私の頭の中はのんびりと考え事をする。
 あぁ、折角晴れてるのになんで濡れてんだろ。はずかしいなあ。
 それに、あの人の家に行くというわけだし、過剰に心配されるのが心配……。
 いや、顔あわせたら別の方向に行くかな。会うのはあの日以来なわけだし。もしかして、怒られる……のかも?
 二転三転する意見は、結局まとまることなく終わり、そうこうしているうちに、私は目的地にたどり着いた。
 そこは10階建ての分譲マンション。改修工事されたばかりで見た目だけは綺麗だけれど、実際は築20年を目前に控えている。
 マンションに入ったところで、本来なら相手の部屋番号を押して呼び出しをするものを、私は鍵を差し込んで自動ドアを開かせた。
 エントランスに入ってしまうと、マンションの古臭さが剥き出しになる。綿が出かかった二人掛けのソファが置かれていて、床のタイルもところどころ色が薄いし、清潔感を気持ちだけ漂わせている大きな観葉植物の鉢は縁が割れてるし。正直引き返したい思いをなんとか堪えながら、エントランスを通り過ぎて6階まで階段を登る。
 階段のすみに、ビールの缶が置いてある。鼻につくアルコールのにおいは、やっぱり慣れない。このマンションは、何故か気性の荒い住人が多い。だから来てくれる清掃業者がいないらしくて、こういうゴミが目立つ。時たま、ゴミ一切が綺麗に取り払われている上に、壁や床が無意味な程綺麗な時があるんだけど、どうしてかはよくわからない。
 6と書かれたプレートが見えて、私はフロアに出た。目的地はそのすぐ傍。ドアが日に当たって、そこだけ明るくなっている部屋。他の部屋のドアは、外気を遮断するように壁があって日もあたらない。
 外から見ると豪華できらびやかだけど、中は陰湿な空気が漂ってるんだよね、ホント。
 よくもこんなマンションに十何年も住めるなぁ、と毎度の疑問に溜め息をついた。そして、インターホンに指を添えたところで、後ろから体当たりを受けた。
!?」
 そんな声が聞こえた気がする。どうにかドアにぶつかることは避けられたけど、痛い、痛いものは痛い。幸か不幸か、誰が体当たりしてきたのかはよくわかる。
「……誠、痛い、それと暑いよ」
「知らない」
 体に回される腕。それはただ純粋に私を抱きしめた。暑苦しいったらない。
「よかった、あの銀ダコにもを助けることはできたんだね」
「……それ、凄く失礼だよ」
 誠の腕を解いて、誠の正面を向いた。
「お邪魔していい? あの日の話、誠も知っておいたほうが良いでしょ」
「その為にわざわざ……? 嬉しいな。あがってよ」
 誠は柔らかく微笑んで、私が持っているのと同じ鍵を取り出した。
 天海家のドアをくぐると、強烈な違和感で目眩がした。誠の家はいつ行っても整理されてて、このマンション自体のそれとは別の特殊な雰囲気を作っている。
「ミルクティーとレモンティー、どっちがいい?」
「ミルクティーがいいな」
「了解」
 リビングに通されて、私は適当な椅子に座った。少しして、グラスとお菓子を持って来た誠が私の向かいに座る。
「あの日の話をする前に、聞いてもいいかい」
「なに?」
「あの日の夜から、ずっとの家に電話してたんだけど、繋がらないのはどうして?」
「……あー……」
 あの日の前に雲雀さんの家から戻った後、電話鳴るのが嫌だったからコード抜いちゃったんだっけ……
「んー、わかんないな、何かの拍子でコード抜けたかも」
 その答えに誠はあまり満足してないみたいで、相槌が凄く適当だった。
「ま、いいよ。じゃあ、本題に入ろうか」
 テーブルの上に置いたお皿からクッキーを1枚つまんで、一口で食べきる。それで機嫌が直ったのか、絡めた指に乗った誠の顔は、微笑んでいた。
「あの日は何をされた? あの男は何者? 銀ダコはどうやって君を助けたの?」
 ……何処から話せばいいんだろう。とりあえず関係者だから、ある程度知っておいた方がいいと思ったけど……。
 自分の中で整理しながら、目の前の誠に、あの日のことを話した。とは言っても、私はほとんど気を失っていたし、助けてくれたというより、私が逃げたというほうが正しいし……雲雀さんと私がした会話のことは言えない。
「……その、雲雀は君達のこと追いかけて来なかったの?」
 私が相槌を打てば、ふーん、と誠はまた一枚クッキーを口に入れた。
への執着が薄いわけでもなさそうだったのにな……芽は早いうちに摘むべきかな」
「芽? 執着って……なに?」
「雲雀はに好意をもってるんでしょ」
「なんでそれを……!」
「君が拐われる前に彼が言っていたことを思い出せば、自然に行き着く……それよりも、告白されたのを隠してたね」
 す、と細められた目から、微かな怒りが滲み出ている気がする。
「そんなの……言えるわけないよ」
「気にしてないよ。はきれいだから」
 そう言って微笑んでいるけど、そんなの絶対嘘に決まってる。
「あぁ、やっぱり虫涌いちゃったかぁ。だからの転校には反対だったんだ……」
 誠は自分のコーヒーを一気に飲み干して、クッキーも3枚くらい一度に口に入れた。口の中でクッキーの割れる音が、異様に大きくて……
「あのカフェで会った日だって、正直我慢ならなかったんだからね」
「…………」
のそっちの生活を壊したくなかったから、仕方なく少し威嚇しただけで帰ったんだよ」
 誠は、自分の背後に気付いていないのか、変わらずつらつらと話し続けている。
「なんで母さんはをわざわざ編入させたんだろう」
「さぁ、何故でしょう? この問題は3択です。1、は誠が嫌いだから。2、誠は変態だから。3、実はは並高の情報を盗むスパイだから」
 その声に、誠は飛び上がり、珍しく表情を大きく変えながら振り返った。
「母さん!? わざわざ気配消してこないでよ!」
「いいじゃない、別に取って食いはしないんだから」
 誠のお母さんは、私たちの目の前のテーブルに大きなトートバックを置いて、誠の隣に座った。
「さぁ、誠。答えて?」
 藍色がかかった黒髪ショートカットの誠のお母さんは、笑顔が凄く誠に似ている。
「…………」
 誠が口をパクパクさせること数秒。
「ブッブー、時間切れです。正解は、"4、いずれわかるので知る必要なし"! 罰則としてお菓子没収ととの面会時間終了ね」
 笑顔のままドアを指差して、出ていってと言うお母さんに、誠は当然大人しく従うはずもない。
「何故!? 理不尽にも程があるよ!」
「私の辞書に理不尽という言葉はないわー。ついでに言うと、私の辞書には男卑女尊の文字で埋めつくされてるからね」
 そう言うと、お母さんはさっきとは別の笑顔を見せる。そうだなぁ、なんというか、大人の笑み?
 私達年下が、口答えできない圧力を含んだ笑み。うん、そんな感じ。なんでこんな綺麗で優しい人が、こんな顔できるのか不思議だけど。ある意味、怖い。
「……わかったよ、もう」
 誠は最早この笑顔に手懐けられているわけで、溜め息をひとつ溢しただけでリビングから出ていった。
「本当、いい子に育ってくれたわ」
 誠がドアを閉めて行くと、お母さんは頬杖をついて私に笑いかけた。その笑顔は、梅雨明けに似合う爽やかなもの。
「素直だから扱いやすい。でも、自分の意見はちゃんと持ってる」
「扱いやすい……の?」
「私にはねー」
 誠が残していったコーヒーカップの縁を人差し指でなぞっていたお母さんは、突然顔を上げて、きらきらとした目を私に向けた。
、並高はどう? 友達はどんな子?」
「楽しいよ。最初にできた友達ふたりが、実はね、山本君と同じ中学校だったの」
「あら、すごい偶然ね。男の子?」
「うん」
「あなたの友達なんだから、きっと美形ね」
「なんでそうなるのかな」
 実際、獄寺君は美形、だけど。ツナさんはどちらかというと、まだ可愛い顔立ち。失礼とは思うものの。
「あながち間違ってなさそうね。もすみに置けないわ」
「別にそういうのじゃないよ、二人ともいい友達だから」
 そう、いい友達。
 不意に獄寺君の横顔を思い出す。ここはツナさんと一緒に出てくるとこなのに、と思うけれど、これは仕方ないことだから諦める。ごめん、ツナさん。
「そういえば、この間誠がフラフラになって帰って来たんだけど、心当たりない?」
 反応するまでに、時間がかかった。私が直接見たわけではないけれど、心当たりなんて言われたらひとつしかないから。お母さんは、今までと全くかわらない、何気ない調子で聞いていた。
「さぁ、知らないよ」
「ならいいんだけどね」
 案外軽く流されたことに、少し驚いた。
「私と誠はそろそろ家を出るんだけど、はどうする?」
「あ、じゃあ私も」
 出ていたお茶を片付けるのを手伝って、誠を呼ぼうと思ったら、いいタイミングでリビングに入ってきた。
、一緒に夕食食べない?」
「いいよ、今日はもうご飯の用意してから来たから」
「そう……なら仕方ないね」
 特に残念がるわけでもなく、誠は軽く済ませた。
、また遊びに来るのよ。そのお友達も紹介してほしいわ」
「できたら……そうする」
 控えめに微笑んで、先に誠の自宅を出る。
「じゃあ、また」
「アイツらと、あまり関わらないでよ?」
「あら、誰のこと? そのアイツらと会えることを楽しみにしているわ」
 軽く手を振れば、ふたりもそれを返してくれた。そうして私は、大した意味を持たない天海家訪問を終えた。