木の葉が真っ赤に染まり、ちらちらと舞い落ちる。
 乾いた空気のせいか、空は遠くに見えた。
ちゃん、可愛いよ」
「いい? 応援してんだから、ちゃんと成功させなさいよ!」
「……うん、ありがとう」
 京子と花の笑顔が励ましになる。は、転入してきた頃はまさか、こんなことになってしまうなんて思いもしていなかった。しかしこうなった以上、今日、この時を心の底から楽しもうと思っていた。
 場所が、いつもと違うだけだ。大丈夫……いつも通りに歌うだけでいい。ここでいくら暴れても、自分の存在証明にはならない。
 自分にそう言い聞かせて、は体育館の裏口から舞台裏へ入る。既に麻里と獄寺はそこにいた。
「おせー」
「ごめんね、髪の毛結うのに時間かかって」
「いいじゃんな、可愛いよ
 麻里が、の肩を叩く。
「……ありがとうございます」
 ふたりは完全にリラックスしているようだ。暗がりに、獄寺のゴツいリングが光った。
「あ、今のうちに紹介しとくな、オレの大学の知り合いで、ベースとかドラムとかしてくれる奴ら」
 そう言って麻里が指した先には、丁度麻里と同輩くらいの男女が数人いた。各々に適当な挨拶を交わしていると、は獄寺の眉間の皺が、いつにも増して深くなっているのに気が付いた。
「獄寺?」
「聞いてねぇ……」
 顔を伏せ、声をどもらせる。
「え?」
「助っ人が全員年上なんて聞いてねぇ……」
「……もしかして、年上の人苦手?」
「苦手じゃなくて、年上は全員敵だ」
 頑なに"苦手"を否定し続ける獄寺に、苦笑を禁じ得ない。暗かったのが幸いしたのか、獄寺には気付かれなかったけれど。
「大丈夫だよ。一緒に演奏するんだから、敵じゃない。仲間だよ」
 微笑んでみると、獄寺は一瞬眼を合わせ、すぐに体ごと逸らしてしまった。
「……わーったよ」
 それでも、肯定の声が聞けたのでよしとする。
「あと5分だ、今のうちに精神統一でもしとけ」
 麻里が言う。は、はやる心を落ち着かせる為、バンド結成を決めてからの2ヶ月間を振り返ることにした。



 バンド名が決まって以来、は小さなピアノが置いてある空き教室で放課後を過ごすようになった。正規の音楽室は、吹奏楽部や合唱部が使っていて、同好会ですらない、期間限定のバンドが、音楽室を借りることなどできるはずもなかった。それでも、並中の音楽活動が盛んになったら……と、かつて獄寺にピアノの席を奪われたあの音楽教師は、その空き教室の鍵を貸してくれたのだ。
 は毎日、この教室に来てはひとり歌っている。麻里は、本来の大学生としてのレポートや学校での雑用等でなかなか練習に関われない。ましてや獄寺は、不本意のバンド活動より、ツナとの下校を優先して、さっさと帰ってしまう。前に一度、が声をかけたが、
「……そんな暇ねーの。オレには10代目を守る義務があんだからな」
 と、拒否されてしまった。
 練習する気すらないだろうとは考えていた。
「……あれ?」
「どうしたの?
 HRが終わり、騒がしくなった教室の中で、はひとり顔を真っ青にさせていた。
「ツナ……あの教室の鍵、知らない?」
「あのって、がいつも練習してる教室?」
「うん、いつもバックに入れているはずなのに、入ってないの」
「さぁ……そもそも、あそこに鍵かかってるなんて初めて知ったし」
 普通の生徒なら関わることのない教室だ。最もな感想の後に、ツナは山本に呼ばれて補習に行ってしまった。
 あれこれ迷っているうちに、教室には誰もいなくなってしまう。途中、麻里に声を掛けられたが、はなんでもない、と言った。
 麻里なら、必ず探すのを手伝ってくれるだろう。しかし、練習を一緒にできないほど、今は忙しい。迷惑をかけるわけにはいかなかった。
 ロッカーに、机の中に、ありそうなところは全て探しても、結局見つからなかった。ひとまずは、あの教室に行くことにする。
 そこに落としたとして、みつけられるとは思っていなかったが、何かをしていないと落ち着かなかった。
 もし、誰かが拾ってしまったら?
 職員室に届けられてはいけない。あの先生に信頼されて、特別の許可をもらって練習しているのだから。
 しかし、さらに最悪なのは……。
 ピアノしかない教室でも、何ができるかはわからない。乗っ取られたとしたら……。
 嫌な予感しかしないまま、あの教室が見えてきた。
「…………?」
 ピアノの音が聞こえる。
 それも、が右手だけで弾くたどたどしいメロディーではなく、小川が流れるような緩やかな旋律だ。
 耳をすませてみれば、その旋律は、音楽の知識が皆無に等しいでも知っている曲のそれであった。
 エリーゼのために。
 あんな小さな楽器でも、奏者が変わればこうも変わるのだろうか。は聞き惚れそうになるが、裏を返せば、今ピアノを弾いている人物がの鍵を持っていると言って間違いないはずだと思い至った。
 教室のドアは閉まっていた。開けようとしても鍵がかかっている。何回かドアを動かしていると、ピアノの音は止まってしまった。
「開けてください、誰かいるんでしょう?」
 教室の中で、靴音がする。それはだんだん近づいてきて、はたと止まった。
「……か?」
 教室の中から、声がした。聞き慣れた、男子の声。
「獄寺?」
 鍵が解かれ、ドアが開いた。そこには獄寺が、口を真一文字にして立っていた。
 少しの間があり、先に口を開いたのは獄寺だった。
「10代目が補習なんだ。それで待とうとしたら、10代目が、その、待っているなら練習に付き合ったらどうだっておっしゃるものだから仕方なく……」
 聞いてもいない言い訳を口走りながら、視線を泳がせる。
「……鍵、私のバックから取ったの獄寺?」
「は?」
 完全に狼狽えていた表情が、きつくなり、すっとを見据える。
「ざけんじゃねー、鍵穴に差しっぱなしだった奴がよく言うぜ」
「え……」
 そこで、はっと思い出す。
 昨日の練習の後、鍵を閉めようとした時に人間が殴られる音がしたのだ。その音に混じって、微かに雲雀の声が聞こえ、とっさに逃げ帰り……。
「……ごめん」
 項垂れるに対し、獄寺は腕を組む。
「ケッ、オレがそんな手癖悪いように見えたのかよ」
「だからごめんって」
 獄寺はくるりとに背を向け、ピアノの椅子に腰掛ける。苛立ちは隠せていないが、何故か椅子に座るときに荒さは見せない。
「……やるぞ」
「え?」
「…………だから、」
 獄寺は、軽く深呼吸をする。
「練習、やるっつってんだろ」
 体を捻り、顔を半分だけに向ける。その耳は、うっすら赤くなっていたが、は気付いていなかった。
 少しの間の後。の顔は明るくなり、大きく頷いた。



 あれからの練習で、はみるみる上達していった。やはり、メロディーを覚えるのに、自身の下手なピアノでは役目を果たしていなかったらしい。
 何故だろう、獄寺は練習を始めたばかりの頃からずっと上手かった。
 には、その理由がわからなかった。けれど、その上手さに助けられたから、あまり気にすることはなかった。
 もう時間だろうか。舞台裏が少し騒がしくなる。

 獄寺に声をかけられる。
「なに?」
「あんま緊張すんなよ」
「……うん」
 言われても、するものはしてしまう。体が硬くなったような気がして、落ち着かない。
「じゃあ、。右手出してみ」
 ふたりの間に割って入ってきた麻里。彼に言われるがままに右手を出すと、麻里は綺麗な手だなーと呟く。
「テメッ、何口説いてやがる!」
「別に口説いてないって。ていうか、なんで獄寺が反応してんの?」
 にたにたと笑う麻里に、獄寺は一睨みするが、それ以上は踏み留まる。
「……で、そうじゃなくてさ。手の平に"人"って漢字三回書いてみ」
「え、どうしてですか?」
「いーからいーから」
 はとりあえず、言われた通りに人を三回書く。別に、手の平に文字が浮かび上がるわけでもないし、何のへんてつもない。
「やったな、じゃあ、それを飲み込んでみな」
「へぇ? どうやって……?」
「あー、えっとな……」
 どうやって? どうやって……と手を口にもっていったり離したり、する。
「んー、なんつーか、そこらへんに浮遊している空気を飲み込む感じ」
 そう言って、麻里は実演らしきことをしている。なんだかよくわからないまま、は言われた通りにした。
「……よし、行くか!」
「は? つーか今のなんだったんだよ」
「いや、気にすんな」
「気になんだろが!!」
 遠くからアナウンスが聞こえる。麻里は獄寺に向かって、人差し指を口にあてる仕草をした。
「……ケッ」
 黙る獄寺に微笑み、全員に合図をしてステージにあがる。もそれにならい、リハーサルで指示されていたセンターの位置についた。
 体育館全体が真っ暗だ。けれど、その中でたくさんの人がいるのは見える。
――大丈夫。歌える。
 麻里がさせたのは、緊張をとくおまじないか何かだろう。はすっかり落ち着きを取り戻し、熱いライトの熱を受けて息を吸った。